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東京地方裁判所 昭和50年(ワ)11112号 判決

原告

本領捷二

本領亜矢子

本領美佐子

右原告二名法定代理人親権者父

本領捷二

原告ら訴訟代理人

大貫端久

被告

長谷川恒範

被告

右代表者法務大臣

奥野誠亮

右被告両名訴訟代理人

真鍋薫

被告国指定代理人

深沢晃

外二名

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実《省略》

理由

一請求原因1の(一)、(二)記載の事実(当事者等の地位)は当事者間に争いがない。

二請求原因2の(一)ないし(六)記載の事実(本件死亡事故の経過)中、昭和四九年一月八日午後三時ころ、同月一〇日午前九時ころ及び同月一一日午前二時半ころの三回にわたつて己和子が国立第一病院を訪れ、その際の担当医師が順次佐藤、長島、長谷川各医師であつたことは当事者間に争いがない。

原告捷二本人尋問の結果によれば、己和子が右のように国立第一病院に通院するようになつた経緯は次のとおりであることが認められる。

己和子は、昭和四九年一月五日ころから体調を崩し、頭痛・発熱等の症状を呈していたが、同月八日になつても右の症状がおさまらないので、同日午後三時ころ国立第一病院へ赴き、佐藤医師の診察並びに注射、投薬等の処置を受けた。しかしながら己和子は、症状が快方に向かわず、頭痛・発熱の他注射部位(右腕)、腰等の痛みも加わつて不眠に陥り、症状が悪化するように思われたため、同月一〇日午前九時ころ再び国立第一病院に赴き、長島医師の診察並びに投薬の処置を受けた。その後、己和子は自宅で安静にしていたが、同日夜になると前記の痛みがひどく、原告捷二には己和子の衰弱が著しく、入院の必要性もあると感じられたので、同月一一日午前二時半ころ、原告捷二は救急隊の出動を得て、三度目の診察のため己和子を国立第一病院へ連れて行き、当直医の被告長谷川医師の診察を受けさせたが、同医師は、体温、脈搏、胸部、痛部の観察等簡単な診察を行い、痛部(右腕)に湿布を施し、痛み止めの投薬を行つたのみで、入院の必要はないとして、明朝また来院するように指示して帰宅を許した。帰宅後己和子は安静にしていたが、同日午前八時ころ病状が急激に変化し、救急隊によつて応急手当を受けたが、午前八時四〇分ころ死亡した。

三己和子の死因について

己和子の死亡後同人の死亡に変死の疑いがあつたため司法解剖が実施され、鑑定人齋藤銀次郎によつて鑑定書が作成され、その中に己和子の死因について溶血連鎖球菌性髄膜炎であるものと考えられる旨の記載のあることは当事者間に争いがない。

成立に争いのない甲第四号証並びに証人齋藤銀次郎の証言によれば、齋藤鑑定が己和子の死因を髄膜炎と推定している根拠は、次のとおりである。

(1)  髄膜はほぼ透明であるが頭頂部でわずかに混濁していること(髄膜の混濁は髄膜での炎症の存在を示す。)。

(2)  脳軟膜の血管の一部の周辺に多形核白血球ないしリンパ球の軽度ないし中等度の浸潤の見られたこと(右浸潤は炎症の存在を示す。)。

(3)  髄液及び血液のいずれにも溶血性連鎖球菌A群(小林Ⅰ型)多数の存在が証明されたこと(炎症の原因となる細菌の存在を示す。)。

(4)  髄膜炎の他に何らかの疾病を思わせる所見のないこと。

右(1)ないし(4)から、齋藤証人は己和子の死因を髄膜炎としたのであるが、その解剖所見からは、己和子の生前の髄膜炎の病状はさほど重いものではなく、髄膜炎に顕著な症状もあまり明確ではなかつたであろうと推測される。

一方当裁判所の鑑定の結果によれば、鑑定人福田芳郎は、己和子の死因について心筋炎を原因とする急性心不全であるとの所見を示したことが認められ、その根拠とするところは次のとおりである。

(1)  心臓左心室からの組織標本には、心外膜及びそれに続く心筋間質に軽度ではあるがリンパ球、好中球、好酸球を主とする細胞浸潤があり、心筋線維の変性も散在して見られること(右の所見は心筋に炎症性反応、すなわち心筋炎の存在したことを示す。)。

(2)  肺の高度のうつ血及び全身の著明なうつ血のあること(急性心不全の存在を示す。)。

そして、鑑定人福田は齋藤鑑定の内容について、

(1)  髄膜の頭頂部での軽度の混濁は、髄膜の線維性肥厚によつて説明できる。

(2)  病理組織学的に肝・心・腎・肺などに炎症性反応が見られないので、溶血連鎖球菌(以下「溶連菌」という。)によつて全身感染があつたとは考えにくい。すなわち溶連菌感染は死亡後である可能性が高い。

として、死因が髄膜炎とは考えにくいと指摘している。

ところで、前掲証拠によれば、齋藤証人は、右(1)の指摘についてはそのとおり説明可能であるとしつつも、右(2)の指摘については、己和子の死亡は気温の低い時期である一月であつて死後変化としての腐敗は考えにくく、また、生前感染があれば敗血症を惹起させて各臓器に炎症反応を起し得るものであるが、解剖所見によれば、肺には軽度の肺炎の存在が見られ、福田鑑定人自らも心筋炎の存在を認めているのであるから、その発現の程度が抗生物質の投与によりおさえられていても、各臓器に軽度ながら炎症性反応は見られるので、溶連菌によつて生前に感染を起していたと考えるのが合理的であるとしている。そしてさらに福田鑑定の結果については、鑑定書上に鑑定人福田が根拠としている「全身の著明なうつ血」との記載はなく、急性死とは矛盾する解剖所見(本屍には左心房内に暗赤色流動性及び同色軟凝性血液が存在したが、急性死の場合には血液は普通流動性で軟凝性のものは含まれていないこと。)の存在したことを指摘する。

以上のとおり、本件証拠中の二つの鑑定はその死因についての意見を異にするものであるが、これらは、法医解剖による鑑定と病理による鑑定という違いがあるにせよ、いずれもその可能性を否定できない死亡原因であるといえるが、その根拠としているものはいずれも決定的とはいえない剖検所見である。

(もつとも前示の溶連菌の生前感染が明らかになれば、齋藤意見の可能性が大きく増大するが、それも本件各証拠によつては明確にすることは困難である。)

結局己和子の死因について(少なくとも本件に提出された証拠によつては)、明確な判断を下すことは著しく困難であるといわざるを得ない。

四被告らの責任について

1  一般に患者の診察に当る医師は、当該患者の症状を的確に把握し、もつて適切な治療行為を施すべき診療契約上もしくは一般的な注意義務を負うものである。もつとも、患者に発現する症状は変化するものであり、診療経過の各時点において確定的な診断を下すことが困難であることも少なくないといえる。しかしながら、診察に当る医師は当該具体的症状の下で罹患が推測される症病について徴表の現われている場合には右の症病について十分な配慮を行うべきであり、かつ具体的な症状に対応する療法を用いて、可能な限りでの診察・治療をなすべきである。

本件の場合は、前記のとおり死後の解剖結果によるもその死因についての確定的判断は困難な場合であるが、経過的な診察・治療において、本件における各医師に配慮に欠けるところがなかつたかについて検討をする。

2  原告らは本件各医師は己和子が髄膜炎もしくは心筋炎に罹患しているか否かについての配慮を欠いたと主張する。

そこで右の髄膜炎、心筋炎について臨床所見について検討する。

(一)  髄膜炎の臨床所見

〈証拠〉によれば、髄膜炎の臨床所見としては、急激な発熱、激しい頭痛、悪心、嘔吐、項部硬直(項部及び背椎筋肉の反射性緊張によるもので、他動的に患者の頸部を前屈、側転させようとすると、その部に激しい疼痛を訴えるもの)、ケルニッヒ症候(下肢を伸展したまま他動的に挙上させ体幹に近づけると、上腿の裏面に疼痛を感じ反射的に下腿が膝関節で屈曲する現象)、ブルジンスキー症候(頭部を他動的に持ち上げ、胸に近づけると膝関節、股関節が反射的に屈曲する現象)、精神症状等であると認めることができる。

(二)  心筋炎の臨床所見

〈証拠〉によれば、心筋炎の臨床所見として、体動に無関係な胸部痛又は不快感、動悸、全身倦怠感、脱力感、食欲不振、頭痛などがあり、心不全の出現とともに息切れ、呼吸困難、起坐呼吸などが出現するものと認めることができる。

3  右1、2及び前認定の己和子の死亡に至る経過を前提として、本件担当医師が各診察時に己和子に対し適切な診断・治療を講じていたか否かについて検討する。

(一)  昭和四九年一月八日佐藤医師の診察時

右日時における己和子の容態ならびに佐藤医師の処置について、〈証拠〉によれば、己和子は、右受診時に38.6度の発熱があり、全身倦怠感、吐き気、手指先にしびれ感等を訴えたが、その他特に異常所見はなく、末梢白血球数検査結果も五四〇〇と正常値を示していたこと、佐藤医師は、これらに基づき、己和子が急性感染症ないしインフルエンザに罹患しているとの印象をもち、抗生物質、解熱剤、ビタミン剤等の投薬(その内容は、請求原因に対する被告らの認否6(一)記載のとおり)をしたことが認められ、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

右によれば、前掲各事実に照らして考えるも、佐藤医師の診断・処置全般にわたり、何らかの適切を欠きあるいは配慮を欠いたことを推察させるに足りる事実は、認めることができないというべきである。

(二)  昭和四九年一月一〇日長島医師の診察時

右日時における長島医師の診察について、〈証拠〉によれば、己和子が右上腕部疼痛と不眠を訴えたこと及び同医師が睡眠薬等の投与(その内容は請求原因に対する被告らの認否6(二)記載のとおり)を行つたことは認められるが、その他己和子に異常な所見のあつたことは本件全証拠によるも認めることはできない。従つて、長島医師の診断・治療に適切を欠くものがあつたとは認めることはできない。

(三)  昭和四九年一月一一日長谷川医師の診察時

右日時における己和子の容態及び長谷川医師の診察内容について、〈証拠〉によれば、己和子は前記(二)の長島医師の診察を受けた後も上腕部の痛みがおさまらず、その夜も痛みのため不眠が続いたためその夜(一月一一日)の午前二時半ころ、救急車の出動を要請して国立第一病院へ赴いたこと、そのころの一般状態は呼吸はやや荒く、一人で歩行することにやや困難が感じられる様子であつたが、質問に対する応答は明確に行うことができたこと、体温、血圧、脈搏には異常のなかつたこと、己和子は右上腕部の疼痛と不眠を主訴としていたこと、診察に当つた長谷川医師は右主訴をきき、三瓶看護婦から体温、血圧等の検査の報告を受け、胸部、痛部等について簡単な観察を行なつたが(原告本領捷二の供述、証人富永一法の証言中には、長谷川医師は胸部の聴診をしていないという部分があり、他方証人三瓶登志の証言、被告長谷川の供述中には聴診をしているという部分があり、両者は矛看している。しかし、後者の証言等によると、己和子の診察中原告捷二は急患室の中には入つていたが診察はカーテンで仕切つた中で行なわれたと認められ、原告捷二の供述は正確さを欠いているので、長谷川医師は右主訴に従い痛部の触診に重点をおいていたが、聴診も一通りしたとみてよいものと認められる。また乙第一号証中の昭和四九年一月一一日の記載部分の後半は、被告長谷川の供述によると、同医師が翌日に記載したものを後日添付したと認められるが、不実の記載がされているとは認められず、右認定を左右するものではない。)、己和子に対する所見として右上腕部の炎症性腫脹と発赤及び不眠を認め、その処置として解熱鎮痛消炎剤(ホンタール)、催眠鎮静剤(ブロバリン)を投与したこと、以上の所見の他に特に異常な所見が認められなかつたので、診察時は深夜でもあるので明朝再度来院するよう指示して帰宅を許したことを認めることができる。

原告らは右診察時において長谷川医師が己和子の症状についての適切な配慮を欠いたと主張するが、前掲各証拠によつても、髄膜炎の特徴的所見である項部硬直、ケルニッヒ症候、ブルジンスキー症候については、動作の中にその徴候を見出しうるものであるが、その存在を認めることはできず、また前記のとおり高度の発熱、頭痛等の訴え、所見もなく、心筋炎あるいは心不全についても前認定の特徴的所見を認めることができず、確かに髄液検査、心電図等の精密検査は実施していないが、その必要性を認めさせる徴候は明らかでないのであり、これに加えて、長谷川医師の診察時間が深夜の応急診察時であること等を考え合せると、長谷川医師の診断・診察について、不適切さのあつたことを認めるに足りる証拠はないというべきである。

4  以上1ないし3のとおり、結局、己和子の診察に当つた本件各医師に前記の注意義務に欠けると認めるに足りる証拠はなく、従つて被告長谷川についての不法行為責任、被告国についての不法行為及び債務不履行責任を認めることはできない。〈以下、省略〉

(山田二郎 久保内卓亜 内田龍)

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